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音楽には、始まりと終わり、発展と後退、クレシェンド[音をだんだん強くすること]に続くデクレシェンド[音をだんだん弱くすること]といったかたちがある。
コフートはそのほかに、子供が音を聞くことによって感じる破壊的な不安をコントロールするうえで、音楽が役立つという可能性を見出した。
このような知識をまったく持ち合わせない人でも、乳児や幼児が音楽的な響きに対して示す喜びと興奮でいっぱいの反応を見れば、
音楽が成長しつつある人にとって特別の機能を果たしていることが、容易に理解できる。
初めのうちは混沌とした音の集まりに過ぎなかったものであっても、音楽としてのシンプルな形式を識別できるまでに子どもが発達すると、
そこにあるかたちや規則性を理解できるようになる。私たちが音楽を聴く際に非常に重要となる音楽の特質は、繰り返しが可能であるということである。
繰り返し聴くことで、子どもは音楽の形式と規則性を学ぶだけではなく、安心して聴くことができるようになり、一度聴いたものを再認識できるようになっていく。
繰り返しによってなじんでいくのである。繰り返しによって、私のなかに取り込まれていく。
私のなかに取り込む、からだの一部にすることは、私たちにとって何かを征服したことを意味する。
このようにして子どもは口唇期のあいだは何でも口に入れようとするが、それだけではなく、自分のからだの一部に取り入れるべく「音楽を吸い込む」のである。
音が脅威のもとであったことは、記憶の隅に留まるに過ぎなくなる。私たちは長い道のりを経て不安を克服し、まさに音楽を通して音楽を楽しむようになっていく。
さて、このような理由から、人はなじみの音楽を聴くとリラックスできるのである。私たちのなかにある子どもの部分が不安に感じるような音を聴くと、
それを中和させるために必要な緊張したエネルギーが音楽を聴きながら開放されていき、リラックスした状態が生まれる。
コフートはここで、喜び[喜びや満足をもたらすもの](Genu β)という言葉を用いている。音楽は、不安に満ちた音の世界のなかで
安心して過ごせるようにしてくれた最初のシンボルであるからこそ、私たちは音楽に喜びを感じるのである。
脅威を感じるような緊張から一転してリラックスした状態を繰り返し体験するために、私たちは音楽を愛し、繰り返し聴く。
音楽を繰り返すということは、繰り返し聴くということ、そしてそれは再認識を意味する。繰り返しのたびに、
私たちは少しずつ否定的な緊張感を失っていけるようになる。ここでは、繰り返しによって刺激の度合いが下がり、それが感覚を鈍くさせているのではない。
そうではなくて、以前は不安につながっていた刺激をなだめるために使われていたエネルギーが、
より一層の喜びや満足を得られるような使われ方に変化していくことを意味している。
私たちの影の面を明らかにし、意識できるようにしていくプロセスは、決して直線的なものではないが、意識的に自分のなかで統合して、
私たちの「全」人格が幅の広いものになれるようにしていく。つまり、回り道が必要である。あの人は回り道をあいている、
迷子になって違う方向に進んでいるようだと感じてしまうことがよくある。
スイスの心理療法士のモニカ・モニコ(Monica Monico)は、人が生きていくうえでの能力のシンボルとして迷路を挙げている。
彼女は、このシンボルから心理療法の研究を先どりする考え方を導き出している。人が迷路のなかでさまよいながら重ねる回り道は、
彼がその迷路から抜け出すうえで必要な回り道なのである。
治療においては、この回り道を自分の人生のなかの道として認め、受け入れることがテーマとなる。
迷路の中心近くにあるもの、つまり人の本質に近い部分に至る道こそが、いったん立ち止まって過去を振り返り、先の道を発見し、
新しい壁に立ち向かい、あらためて立ち止まり、また振り返る……というプロセスを生み出す。ある人にとっては逆戻りと思われるような後退も、
この迷路というシンボルの見方からすれば、病気や危機に満ちた彼の迷路のような人生から、いつか抜け出すために必要な道すじなのかもしれない。
クレタ島の迷路では、実際に中心点から同じ道を後ろにたどっていく。そうすることで自分と出会っていくのである。
中心点に至るまでに感じた感情を思い出しながら。
しかし、退歩は実は進歩なのである。人生の最後の時期においてもなお、私たちは内的にも外見上でも弱々しい人としてのイメージ、
手短に言うと年老いていく生き物としてのイメージだけで終わらないことを祈りたい。
この人生最後の時期こそ出口、自分自身の人生の迷路の出口に近いのだから、平らかなまっすぐな道からは、
私たちのなかにある非凡なものは生まれなかったということが、この迷路を通して明らかになる。非凡なものは、一見回り道と思われる道、
退歩と思われるプロセスにこそ育ち、私たちを成熟させる。迷路の入口が実は出口ともなるが、その出口のすぐ近く、
人生の本当に最後の時期においても、成熟は可能である。
クライエントがこれまで迷い道、回り道、退歩、苦しい病気としてしか感じなかったところにこそ、実は意味があるのだと
クライエントが受け止められるようになることは、どの治療にとっても中心的なテーマであり、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの洞察も同様だった。
非凡なものは、平らな普通の道に生まれないと。
このような言葉を安易に引用し、使い古すことでその言葉の価値が下がるわけではない。
私は最初の教育分析[精神分析の学習課程の一環として、学生は何年にもわたってまず自分自身が分析のセッションを受けなくてはならない]の後、
[ゲーテの]「ファウスト」を読んだが、それは私が深いところで自分自身と向かい合ううえでの個人的な体験をもたらした。自分のなかの光と影の相関関係を、
自分で体験したのである。
教授,哲学博士,芸術修士,心理学者,音楽療法士,作家.
ハンブルク音楽/演劇大学音楽療法部学部長、音楽療法研究所所長、ベルリンのヘルベルト・フォン・カラヤン財団による
音楽療法および芸術的心理療法養成のための、ヘルベルト・フォン・カラヤン・アカデミー校長、
スイスのロイクLEUKの職業人のためのヨーロッパ音楽療法専門大学創始者および専門課程の代表。
治療的、発達心理学的なコンテクストにおける、人と音楽の相互作用に関する多数の本の著者、書籍、およびCDのシリーズの発行者。
ドイツ作家同盟VERBAND DEUTSCHER SCHRIFTSTELLER (VS)の創立メンバー。
第八回世界音楽療法会議大会長。
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